加古隆評


心に響く無限の慈しみと美しさ

小泉堯史(映画監督)

映画『博士の愛した数式』の主人公、博士がこの世で最も愛したのは、素数です。
素数とは、1と自分自身以外では割り切れない数字のことです。例えば、 2.3.5.7.11.13.17.19・・・・・・。この無限に存在する素数は、博士にとって、実に潔く、妥協せず、孤高を守り通している数字なのです。一方、音楽の物理的な性格も、もとをたどれば、数字と云う基盤に根ざしています。数学者のアンリ・ボアンカレーは、「数学の本体は調和の精神である」と述べています。数学の目的が真実の中に調和をめざすなら、音楽の目的は、美しさの中に調和をめざす、と云ってもよいでしょう。 調和をめざす数学も音楽も、それを支える根底が、「情緒」であるならば、美的な領域で、数と音はみごとに手を結んでいます。

音楽家、加古隆の心を何にもましてこの世で強くとらえているのは、音そのものでしょう。コンサート会場で、スポットライトをあび、独りピアノに向かう加古さんは、無限の音の中から、妥協せず、孤高を守り通す素数のように美しい音を紡ぎ出します。神秘に満ちたその音は、無意識の中、加古さんご自身の、遠く、深い心の歴史に根ざしているのでしょう。演奏する姿には、素数の潔さを感じます。
加古さんをして、心が踊るのは、決して作曲の結果が、映画に応用出来るからではなく、音楽そのものが美しいからでしょう。積み重ねられた経験と、研ぎ清まされた直感で天空から聞き取った「旋律」が、聞く人の心を揺さぶります。「旋律」はさらに映像と共鳴し、美しい波紋をひろげ、映画を実り豊かにしてくれます。
これからも音と映像の美しい調和をめざし、一緒に探求できますことを願っています。

2006年、CD『博士の愛した数式』への寄稿文


加古さん

三善晃(作曲家)

芸大作曲科学生だったころの加古隆さんを思い出す。
当時、下宿していた加古さんと独身だった私は、作曲のレッスンを越えて日常生活のあれこれ——たとえば浴槽の掃除の仕方とか、夜食の作り方とか——の話に興じた。名門の高校野球選手だった弟さんの活躍ぶりも加古さんから大分聴かされた。作曲について言えば、夕方から数時間加古さんのスコアーを検討し、「あとは明日の朝」。すると翌朝6時には加古さんがスコアーを抱えて私の家にやってくるのだった。それが大雪の朝だったこともある。雪をかぶって加古さんはいつものようにニコニコ笑っていた。あの時の作品がコンクールの入賞作だった。

在学中「2年で帰ってきます」と約束して加古さんはパリ国立音楽院に留学した。しばらくはメシアンのクラスの様子などを報せてくれているうちに、音信不通になった。そのうちに、別の留学生から、加古さんのピアノがパリで大評判だ、と報せてきた。ベースとドラムを合わせて組んだ加古隆トリオが旋風をまき起こしている、という報せもあった。「加古さん、やったな」と思った。

それからの加古さんの活躍については世界の聴衆がよく知っている。
しかし、加古さんが本当の意味でメチエを持った作曲家であることは、その演奏の見事さのために見過ごされ勝ちかもしれない。
多分に即興についての見方の問題なのだが、即興というものを単なる思いつきの、気分的な、あるいは指の反射運動の結果のように受けとってしまうと、加古さんの運動感覚の鋭さだけがすべててあるように聴こえてしまう。本当の即興——少なくとも加古さんのそれは、その奥に、あるいはそれらの運動イメージを包摂して流れている欲求と音楽的思惟の深さ・確かさ・精密さを感じとらなければ解ったことにはならない。

加古さんの演奏が、どれほど強固な憧憬からひき出され、どれほど精密な音の瞬間を計っているか、そしてその実現のために加古さんがどれほど透析的であり、また集中に賭けているか、それを感じとって初めて加古さんの音楽がみえてくる。そこの加古さんに於ける、音を扱うという作業の眞の内容としての「質の感覚」の見事さがあり、それこそが本当の作曲家のメチエというものだ。それは、なまじ現代音楽乃至その作曲家という肩書きで仕事をしている人たちの曖昧さとはかけ離れたものであって、そこから加古さんの凝縮した生命とも謂うべき音が立ち現れてくる。このレコードからも、その生命の輝きが聴きとれる筈である。

1986年、CD『KLEE〜いにしえの響き』への寄稿文


音の魔術師——加古さんへ

野沢那智(演出家・声優)

近頃のように、俗悪のものの混乱している時代に、多少なりとも至純であろうとすることは、かなり困難なことである。加古隆さんのピアノは、そうした稀有な魔術の一つと言える。魔術というと、何やら詐欺めいた雰囲気が漂うが、加古さんのピアノは決して騙さない。あくまでも純正な魔術師として、私達の目に、耳に、詩の真実を、目にはそれとは判らぬ世界を、その美しい楽音で見事に啓示してくれる。
音楽に似たもの、と、音楽そのものを見分けるのはなかなか難しいことであるが、その区別がつかなかった時、昔はドビュッシーやMJQを聴いたように、今は加古さんの音楽を聴く。そして音楽がまだ生きていることに安心する。時には力強く、時には深い海と、天使の歌声に似た優しさで鳴る、加古さんのピアノの音が、どれ程、僕等の心をしなやかに蘇生させてくれることか。

1986年、『”SOLO CONCERT”発売記念ツアー』への寄稿文